学習の森ー進学塾―国内受験

理科・社会は暗記科目、バスや電車で通学のとき英単語を暗記する….. など、『暗記』という言葉をよく耳にします。
暗記した量が多ければ多いほど、テストの結果も良くなるのは事実です。
でも暗記だけで勉強ができるようになると考えるのは間違いです。
まして、暗記だけで入試を乗り切れるとは絶対に思わないこと。

例えば、英語の例をひいてみよう。

They speak English in Australia.
を「受動態」の文になおしなさい。

という問題があったとしよう。

theyは彼ら、speakは話す、という意味の動詞、Englishは英語、Australiaはオーストラリアという国、ということを暗記し、覚えていただけでこの問題が解けるでしょうか?
それは無理です。これらの単語の意味を暗記しているだけでは正答には結びつきません。
それでは何が必要でしょうか?

次の事柄を理解できる技能が必要です。

◎ 受動態は、be動詞 プラス 過去分詞の形をとる
◎ 主語(主格)のtheyはどのように変わるか?(格の変化)
◎ they という主語は、「一般的な人々」という意味で、受動態の文の中では省略される。
※ speakの過去分詞はspoken

ですから、この問題を解くためには、単語の意味だけではなく、それに必要な技能 (英語ではskill、数学では応用力literacyと言います) を正確にそしてその応用ができるように習熟していなければならないのです。

コンピュータには必ずメモリー(記憶装置)があり、そこに情報(データ)が蓄積されています。
この情報は、いわば『暗記された知識』ということになります。
その暗記された知識を活用し処理するのが、いわゆるソフトと言われているもので、
それがコンピュータにとっての技能 (skill) にあたります。
技能を身に付けてこそ、暗記したデータも活かされることになるわけです。


暗記だけでは絶対に不十分!技能 skill をアップさせてこそ、暗記した知識が活かされる!

技能のアップ!これが君達のこれからの課題です。技能は繰り返しの練習でつちかわれます。



日本人なら中学と高校で6年、大学で4年、合計10年間英語教育を受けてきました。
10年間も英語を受講すればうまくなって良いはず。
それが、話せない、ある程度聞けるがしゃべれない、英字新聞・雑誌はまるで読めない、日常の手紙文は書けるが役所に出す書類 などはてんで書けない、これが私たち日本人の英語の現況です。
「英語ができない」という声は、文部科学省にも届き、それで小学校での「英語必修化」となったのでしょうか。



いずれにしろ、日本人の間でも『なぜ英語がうまくならないのだろうか』という疑問の声を多く耳にするようになりました。
ですから、次に、この疑問に答えてみたいと思います。
ところで、フレンドシップは日本人の生徒や学生諸君に留学をお世話する仕事をもしておりますので、日常的に英語圏の先生と話しをする機会が多々あります。
その外国人の先生が異口同音に「どうして日本人は英語が下手でしゃべれないのでしょうか。
10年間も習っているのに」と言って日本人の英語力不足を嘆いてくれます。
私はそれに対し、「いえそうとばかりは言えません。
日本人の中にも素晴らしく英語できる人もいます。
いちがいに日本人は英語が下手だ、とばかりは言えませんね。」と相手の意見をいなしてやわらかく反論してきました。




ところが、最近、カナダのVancouverで行われたある会合で地元の高校教師から、「日本人は英語が下手ですね。
それに比べて、韓国人、中国人は英語がうまいですね」と言われました。
これにはカチンときまして反論しないわけにいかず、私が常日頃から考えている日本人の英語に対する持論を展開しました。
日本に英語がどんどん入ってきた時代、それは幕末、明治維新の時代。
ひとことで言うとそれは「和魂洋才」、つまり日本の言葉と文化を大切にし西洋の言葉や文化と調和させいっそう発展させていく、この精神が日本人には旺盛でした。
だからそのまま英語という言葉とその文化を受けいれるよりも、日本の言葉で英語と西洋の文化を理解しようと努めました。
細かいことは省略しますが、これは、昔、中国の言葉と文化とを日本の言葉で理解しようとして日本の知識人が発明した「漢文」や「訓読法」見ていただければわかります。
中国人からすれば、「日本人はなぜ中国語をそのまま取り入れようとしないのか」ということでした。
この方法は「漢文」として、いまだに日本の中学や高校で教えられています。
中国人からすれば「なぜ?」ということになります。
「和魂漢才」が今でも続いているわけです。
今でも日本人は、専門家を除けば、中国語は全くわかりません。
しかし、そのおかげで、中国の文化を移入し理解し加工し、そして独自の日本文化を生み出しました。
当時の日本人で中国語がうまかったのは中国に留学した人だけでした。
このように、日本人が「英語が下手」なのには、「和魂漢才」の精神と同じ、文化史的な側面があります。
日本の「やまとことば」と文化に対する思い入れが強いのです。
英語と英語圏の文化をそのまま受け入れることに無意識のうちに抵抗しているようです。
皆さん、「英語が下手」なのは恥ではありません。
いやむしろ「誇り」とすべきものです。
ここで結論、「日本人は英語が下手で結構、しかし堂々とその「下手な英語」で世界に主張をしましょう!」



最近、よく聞く言葉、「近頃、若い人たちは本を読まなくなった」 たしかに若い人は読まなくなった。でも、その原因を若い人の読書に対する関心のなさに求めるのはやめよう。
そうではなく、読もうとする若者の気をそそるような良質な本がいったいあるのだろうか?という視点から考えてみよう。
現在、読んで人に深い感銘を与えたり、また人の思考をそそるだけの良い本がいったいどのくらいあるのだろうか?
つまり、読む価値のある本がどれだけ出版されているのであろうか?
ははなはだ疑問である。
テレビ番組と同じで、全体として、本は低俗化、悪化の状況にあるように思える。
その証拠に、商業主義の宣伝まるだしの、『発売と同時にカンバイ!』とか『十万部増刷!』など新聞や雑誌の広告のキャッチフレーズがやたらと目に付く。このキャチコピーに踊らされてためしに買ってみようものなら、買ってがっかり買うんじゃなかった、という落胆だけが待っている。
そんな本は、きまって、その著者の以前からの考えを違う角度から述べただけのもので、同じ内容の文がやたら目に付き、そこには新鮮さも何もない。
せめて味付けを変えたらどうだ、と言いたくなる。
これが現状ではないだろうか。



したがって、現状では、読める本はこれまで読まれ続けてきた古典しかないと考えている。
しかし、古典と言っても、『源氏物語』や『徒然草』のことではない。
それらのものは読むだけで大変な教養と恐ろしいほどの忍耐力とを要求するのだから、いまどきの若者にはふさわしくない。(もちろん読んで欲しいとは思うのだが)
だから、ここで言う古典とは、現代に(第二次世界大戦後の意味)、日本の文化・芸術、政治経済、文学、科学技術、生命などについて書かれた書物で、著者は今は老境に入っているかまたは既に他界した人の書いた書物のことだ。
マスメデイアに影響されず、透徹した目でものごとを見る冷静な姿勢が貫かれており、したがって、そこには作られていない真実がある。
当然若者の思考をそそる示唆に富んでおり、また想像力をも刺激する。
著者で言えば、加藤周一、養老猛司、梅原猛、廣中平祐、犬養道子、司馬遼太郎、大江健三郎などなど。
また児童書も良い。
灰谷健次郎、五味太郎、斉藤隆介などなど。
そこから、若者が忘れてしまっている夢や希望の世界が見えてくる。



このような古典では、出版社の経営者が涙を流して喜ぶほどの一度の爆発的な売れ行きは期待できない。 しかし、読者は、少しづつ少しづつ、息の長い購入を続ける。
これが良い。
もう一度言うが、悲しいことだが、今はこのような古典しか読むものがないのだ。
みずみずしい感性と好奇心を持ち、そして頭が柔軟な若い時こそ本は読むべきです。
さあ図書館に行き、古典を探そう。 若者よ、ゲームや携帯メールを捨てて本を読もう。